如玄ノバク
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エバ・ハディドン
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如玄ノバク &
エバ・ハディドン 心月庵 e-mail: zendustart@gmail.com |
私が初めて如玄さんの絵に出会ったのは、友人であり泰養寺の住職でもある善幸さんから頂いた扇子でした。その扇子には、菩提達磨が黒い小鳥と会話している、あるいは言葉を交わさなくてもいい仲であるかのような美しい絵が描かれていました。この水墨画の楽しげな精神は非常に印象的で、これは仙台に芸術家の奥様と 住んでいるポーランドの曹洞宗の僧侶が作ったものだと知って驚きました。
今年になって、広島県宮島の美しい大聖院で開催された展覧会で、如玄さんと奥様の妙心さんの作品を見ることが出来ました。これらの作品からは、禅画の伝統の特徴である喜び、ユーモア、精神の軽快さを見ることができました。同時に、如玄さんの絵は、福井県の仏国寺で、故原田湛玄老師の指導の下、生涯にわたっての 瞑想の修行、接心を続けられてきたことから生まれた単純さと深みを表現してます。
この展覧会の眼目は、湛玄老師に霊感を受けた円相です。湛玄老師にとっては、円相の制作は深い悟りを表現する修行であると同時に弟子や檀家に与える手段でもありました。この展覧会での「円相」の配置は湛玄老師が如玄さんの人生と作品に与えた影響の中心を反映しています。この印象的な「円相」の両側には、無駄な 筆を一本も使わない、深みとユーモアのある作品が並んでいます。
原田湛玄老師は人間の本質を表現する為に「変わらない山」のイメージをよく使われましたが、この展覧会の不二山も同じく時を超越した存在感と一体感を備えておりました。そして、剣術家、書家で禅修行者でもあった山岡鉄舟( 1836-1888)の不二山を詠んだ詩を引用した解説もありました。
晴れてよし
曇りてもよし
不二の山
元の姿は
変わらざりけり
展示されている絵は全て、その形式や趣旨に於いて、時を越えた本質と原点を引き出している同じ特色がありました。如玄さんを知らなかったら、これらの絵が禅の歴史上いつ描かれたか知ることは難しかったでしょう、 400年前でしょうか。と同時に如玄さんの絵には、彼の禅修行への深い献身からきている様々な要素の絡み合い、独特のユーモアが見られます。
大聖院を訪れた私達一同(世界各国から来ている僧や尼僧)に如玄さんは色々説明してくれましたが、彼は自分の芸術は禅修業から偶々出てきたものだと言いました。又、如玄さんの奥さんの妙心さんも二人の作品は副産物だと言いました。このように完成された芸術が、偶々出てきたものとか副産物とはちょっと考えられま せんが、禅に全身全霊浸っている芸術家にとってこそ、このような技術が楽々と発揮できるのでしょう。
この展覧会に出席出来たことは、私達にとって大変有難いことでした。私達一同は如玄さんの作品の質の高さと深さに非常に感動しました。又、妙心さんの密教画にも感銘を受けました。
最後になりましたが、ポーランド風のリンゴのケーキを頂きましたが、とても美味しかったです。
これらの作品が、運よく見ることのできる人々に元気を与え、明るくしてくれることを願ってます。
岡山県洞松寺宗立専門僧堂堂長 鈴木聖道
2022年12月30日
大梅寺は仙台城の西後方の蕃山(367m)の山中に在る山寺である。1650年に仙台藩によって創設された臨済宗の古道場である。
1993年3月の或る日、如玄和尚とエバ大姉が春風に吹かれながら、ひょっこりと石段を上って来て座禅をしていった。これが結ばれた機縁である。お二人は夫々に、水墨によって禅画と密画に画筆を振るい、夫々に素晴しい領域に到達している。
人は言う。「禅は自然である。簡素である。不均衡である。脱俗している。静寂である。枯高である。幽玄である。」と。然し、これは禅に対する相手が言う感想である。禅者がそれを意識するならばそれは、偽者である。自覚しない本人から自然に泌み出てくる味でなければならない。.
禅は説明や言論は必要としない。座禅を透して体験することにある。禅画も同様である。無駄な説明の線や余計な墨の跡は、却って煩わしくなり、本質から遠く離れることになる。無意識の禅の心で描くのが禅画である。
如玄和尚の筆力は一段と冴えつつあり、今後の一層の精進によっては、将来、後世に名を残すかも知れない。私は彼の作品の中でも、特に禅者と小動物との対話の中に、一瞬の動きの描写に注目している。将来を期待される禅僧である。
エバ大姉は仏陀の心を理想として、梵字を透して無限の神秘の世界の中に如来や菩薩を描き続けている。画面一杯に、細字の梵字と墨の特徴を活かして、精神をこめて緻密に彼女の心の中の仏陀を表現している。彼女の作品の前に立つと、幽玄な密教の香りがただよって来るようで、思わず合掌させられるから不思議である。
お二人の画風は、方角が相反しているようであっても究極は、仏陀の心に達する道である。
二人の一層の精進と、その成果を期待して推薦の言葉とする。
1997.10.30
仙台市 蕃山 大梅寺
1998年3月、ポーランドのクラコフにある日本美術技術博物館”Manggha”では如玄ノバク氏とエバ・ハディドン氏の展示会”禅塵”を開催し、如玄氏の禅画、エバ氏の神秘的で深遠な仏画の展示をおこなった。両氏は、仙台(日本)からはるばるクラコフにやってきて、彼らの芸術を我々と分かち合ってくれたのである。彼らにとっての芸術とは、典型的な現代の芸術家たちがお金や楽しみのためだけに創造しているものとは異なり、単なる芸術作品を越え、人生においてはるかに大きな意味を持つものであることを我々に教えてくれた。ポーランドの人々にとって今回の展示会は、まず仏教美術との出会いであった。音楽、鐘の音、僧侶のあげるお経、繊細なお香の香りに満たされたギャラリーは、展示会の開催中、瞑想と精神集中の場となったのである。
”禅塵”はまた、人々との出会いの場でもあり、これもまた貴重なものであった。常に幸福な笑みをたやさない如玄氏とエバ氏は、我々の博物館に平和と優しさを持ちこんでくれた。両氏に見られるような、芸術家自身の調和と創造性を目にすることはそう多くはない。おそらくは彼らの日々の生活である禅仏教の体験から、そして彼らの生き様から生まれてくるものなのであろう。
”禅塵”、そしてその作者たちとの出会いはさらに我々の普段の思考に思いを至らせる。西洋はずっと以前から東洋の文化、哲学、思想に魅了されてきた。現在我々の世代は、その当時よりさらに東洋に対して興味を持つようになっており、その傾向は更に高まりつつあるようである。それは表面的で一時的な流行にとどまらず、ヨーロッパの伝統から全くかけ離れたものである東洋を徹底的に理解しようという試みでもある。しかし実際のところ、我々は果たして西洋が東洋を理解し、習得し、新しい伝統として受け入れることが可能なのだろうか、という疑問にいきあたる。その疑問に対するひとつの具体例が如玄氏とエバ氏であり、彼らは、”西から東へ”の長い道のりを越え、異文化の受容という問題において、その徹底した追求を通してひとつの答えを示してくれた。
如玄ノバク氏は筆と墨の表現を見事にものにしている。氏の絵のスタイルはたいへん力強くのびのびとしており、それでいて同時に繊細で、精密で、古い伝統に忠実である。彼は、人がもし何かを志し、日々のおこないのすべてにおいて、それが自身の一部となるほど粘り強く続けさえするならば、文化の壁を飛び越えることはできるのだ、ということを証明している。
エバ・ハディドン氏はその仏画で、古代の神秘的な文字である梵字の真言を背景にびっしりと施している。そしてその前に描かれた美しい仏像がどれほどミステリアスで、威厳があるかは量りしれないものがある。この芸術家は、我々には手の届かないリアリティと常に対峙しているのである。
博物館における如玄ノバク、エバ・ハディドン両氏の展示会は、ポーランドの禅関係者だけではなく日本文化に関心を持つ人びとをも魅了し、そうした人々はクラコフに日々増え続けている。博物館周辺に集まった日本人にも大きな衝撃をもたらし、この展示会に漂う特別な静寂のムードを多くの人が胸にとどめた。如玄氏とエバ氏が彼らの”禅塵”を我々と分かち合ってくれたことに感謝したい。
1999年 1月 29日
ボグナ・ジェフチャルク・マイ
日本美術技術博物館館長
写真
ポーランドブロツワフ市営ギャラリーで行われた展覧会の作品紹介(2018年) | ポーランドブロツワフ市営ギャラリーで行われた展覧会のオープニングの様子(2018年) |
七下鐘
心経
禅画のデモンストレーション (円相)
禅画のデモンストレーション (達磨)
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胆江日日新聞 2019年 (平成31年)2月25日